LOGIN「やった……」
倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。
俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。
息が荒い。
腕が痛い。
指先はまだ震えている。
それでも、俺は立っていた。
勝った。
たった一匹のスライムだ。
この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。
それでも。
俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。
「龍夜くん!」
ミユウが走ってきた。
次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。
「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」
「いや、逃げたかったけどな」
「でも逃げなかったもん!」
ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
俺は強くない。
魔力もない。
剣だって、まだまともに振れない。
でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。
「龍夜くんは、絶対強くなるよ」
「……なんでそんなに言い切れるんだよ」
「だって、諦めない人だから」
何気ない言葉だった。
でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。
誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。
「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」
石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。
「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」
「ほう。言い返す元気は残ってるのか」
ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。
「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」
「それ、褒めてるのか?」
「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」
相変わらず腹の立つ言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。
初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。
その時だった。
神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。
歓声じゃない。
祈りでもない。
泣き声。
叫び声。
助けを求める声。
ミユウの笑顔が消えた。
「行かなきゃ」
「待て、ミユウ」
俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。
神殿の大広間は、人であふれていた。
老人を背負った男。
熱にうなされる子どもを抱いた母親。
顔色の悪い女。
足を引きずる若者。
数えきれない人たちが、白い石床の上に座り込み、柱にもたれ、神官たちへ必死に訴えていた。
「白い羽の少女がいると聞きました!」
「娘を助けてください!」
「聖女様、お願いします!」
その声が、いっせいにミユウへ向いた。
俺は反射的に彼女の前へ立った。
怖かった。
魔物より怖いと思った。
ここにいる人たちは敵じゃない。みんな必死なだけだ。大切な人を失いたくなくて、藁にもすがる思いでここまで来た。
だからこそ、止まらない。
誰も悪くないまま、ミユウだけが削られていく未来が見えた。
「ミユウ、無理だ」
俺は低く言った。
「この人数を一人で見るなんて無茶だ。神官たちに任せて、重い人だけ――」
「選べないよ」
ミユウは、困ったように笑った。
その笑顔は明るい。
けれど、指先が小さく震えていた。
「苦しんでる人がいるんだもん。目の前にいるんだもん。助けたいよ」
「お前が倒れたらどうする」
「大丈夫。わたし、癒すのは得意だから」
そう言って、ミユウは最初の子どもの前に膝をついた。
小さな額へ手を当てる。
白い光がふわりと広がった。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
母親が泣き崩れた。
「ありがとうございます……!」
「よかった」
ミユウは本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
人を救って笑う彼女を、どうやって止めればいい。
でも、止めなければいけなかった。
二人目。
三人目。
ミユウは迷わず手を伸ばした。
彼女の光は温かかった。
神殿の冷たい石床まで、春の日差しに変えてしまうような光だった。
助かった人が泣く。
家族が笑う。
神官たちが祈る。
その中心で、ミユウだけが少しずつ色を失っていく。
「ルゥ」
俺は小さく呼んだ。
「ミユウは、どこまでできる?」
ルゥはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、胸の奥が冷たくなる。
「癒しは奇跡じゃねえ」
やがて、ルゥが低く言った。
「力を使えば、その分だけ削れる。あいつは加減を知らない。目の前で泣かれたら、自分の命まで差し出す」
「止めろよ」
「止めて止まるなら苦労しねえよ」
ルゥの声に、いつもの軽さはなかった。
俺はミユウを見る。
十人目を癒した時、彼女はまだ笑っていた。
二十人目を癒した時、額に汗が浮かんだ。
三十人目を癒した時、立ち上がるまでに一呼吸遅れた。
そのたびに俺は手を伸ばした。
「ミユウ、休め」
「もう少し」
「さっきからそればっかりだ」
「だって、まだ待ってる人がいるもん」
明るい声だった。
でも、息が乱れている。
俺は唇を噛んだ。
守ると決めたのに。
俺は何をしている。
剣を握ってスライムに勝ったくらいで、自分が少し強くなった気になっていた。
でも今、目の前でミユウが削られているのに、俺は止めることも代わることもできない。
それが悔しかった。
自分の無力さが、喉の奥に詰まって苦しかった。
ミユウはさらに癒し続けた。
途中から、俺は人数を数えるのをやめた。
数にしたら、彼女の痛みまでただの数字になってしまう気がした。
代わりに、ミユウの呼吸を見ていた。
肩が上がる。
唇が震える。
手が白くなる。
それでも彼女は、患者の前に膝をつくたび、必ず笑った。
「大丈夫。こわくないよ」
「もう少しで楽になるからね」
「よく頑張ったね」
その声は優しかった。
優しすぎた。
俺はその優しさが怖かった。
誰かを救うためなら、自分が壊れても構わないと思っている声だったから。
「ミユウ!」
彼女の膝が崩れた。
俺は駆け寄り、抱き止めた。
軽い。
怖いほど軽かった。
「もう終わりだ」
「だめ……」
「だめじゃない。終わりだ」
「あと少しなの」
「お前が倒れたら意味ないだろ!」
俺の声が神殿に響いた。
ミユウが驚いたように俺を見る。
怒鳴りたかったわけじゃない。
怖かった。
ただ、怖かった。
さっきまで笑っていた彼女が、腕の中で消えてしまいそうで。
「俺は、お前を守るために勇者になるって決めたんだ」
声が震えた。
「お前が自分を犠牲にして笑うなら、俺が止める。嫌われても止める。怒られても止める」
ミユウの瞳が揺れた。
少しだけ、泣きそうに見えた。
「龍夜くん……」
「頼む。休んでくれ」
その時、広間の奥で小さな泣き声がした。
幼い少女が、老人の手を握って泣いていた。
「おじいちゃん……」
俺にもわかった。
待てない命がある。
ミユウの視線が、そちらへ向く。
俺はその顔を見た瞬間、もう止められないと悟った。
「お願い」
ミユウが、かすれた声で言った。
「最後まで、見届けさせて」
俺は何も言えなかった。
ミユウは俺の腕から離れた。
ふらつく体を無理やり支えて、次の患者の前へ進む。
光は弱くなっていた。
最初のような温かい光ではない。
今にも消えそうな、小さな灯火だった。
それでも、彼女は手を伸ばす。
俺はその背中を支え続けた。
何度も倒れかける。
何度も息を詰まらせる。
何度も目を閉じそうになる。
そのたびに、ミユウは小さく言った。
「まだ」
俺は、その言葉を聞くたびに苦しくなった。
どうしてそんなに頑張れるんだ。
どうしてそこまで人を救いたいんだ。
どうして俺は、何もできないんだ。
最後から二人目の子どもを癒した時、ミユウの白い光が大きく揺れた。
呼吸が整った子どもを見て、母親が泣きながら頭を下げる。
ミユウは笑おうとした。
でも、もう笑顔になりきらなかった。
「よかっ……た……」
その声が途切れた。
次の瞬間、ミユウの体から力が抜けた。
「ミユウ!」
俺は抱き止めた。
今度は、さっきよりも軽かった。
胸が小さく上下している。
生きている。
それだけを確認するまで、息ができなかった。
「おい、起きろ。ミユウ」
返事はない。
手を握っても、握り返してこない。
俺の中で、何かが音を立てて崩れた。
守るって言ったのに。
止めるって言ったのに。
結局、俺はまた間に合わなかったのか。
神殿の中が静まり返っていた。
救われた人たちも、神官たちも、誰も歓声を上げない。
みんな、床に倒れたミユウを見ていた。
その沈黙が痛かった。
ミユウの優しさを見ていた全員が、今、彼女が何を失いかけたのかを知っている。
俺はミユウをそっと床に寝かせた。
その時、神官の声が震えた。
「まだ……一人、残っています」
広間の奥。
さっきの少女が、老人の手を握ったまま泣いていた。
老人の胸は、ほとんど動いていない。
少女は声を殺して泣いていた。
もう誰にも頼めないとわかっている顔だった。
その顔を見た瞬間、俺の中で何かが決まった。
俺は立ち上がった。
「俺がやる」
ルゥがこちらを見た。
「龍夜」
「俺がやる」
「お前に癒しの力はない」
「知ってる」
「失敗すれば倒れるぞ」
「それも知ってる」
俺は老人の前に膝をついた。
手を胸に当てる。
冷たい。
怖いほど冷たい。
手のひらからは何も出ない。
白い光なんて灯らない。
俺は魔力ゼロだ。
この世界に来てから、何度も突きつけられた。
お前には何もない。
お前は弱い。
お前は守られる側だ。
でも。
ミユウだけは違った。
龍夜くんならできる。
絶対強くなる。
諦めない人だから。
あの声が、胸の奥で何度も響く。
「……ふざけるな」
俺は小さくつぶやいた。
自分に言った。
ここで諦めたら、俺は一生、自分を許せない。
ミユウが九十九人を救った。
自分が倒れるまで、笑って救った。
最後の一人だけを絶望に置いていくために、あいつは倒れたんじゃない。
俺は目を閉じた。
集めろ。
どこかにあるはずだ。
ゼロでもいい。
かけらでもいい。
血の奥に、骨の奥に、心臓の奥に、まだ燃えているものがあるなら、全部ここへ持ってこい。
俺は何のためにここにいる。
何のために立った。
何のために剣を握った。
ミユウを守るためだ。
あいつが守ろうとしたものを、俺がここで終わらせないためだ。
胸の奥が焼けた。
息が詰まる。
体の中から無理やり何かを引きずり出されるような痛みが走った。
指先がしびれる。
膝が震える。
視界が白くかすむ。
でも、手は離さない。
「起きろ……」
老人の胸は動かない。
「頼む。起きてくれ」
少女が泣いている。
ミユウが眠っている。
神殿中が、息を止めている。
俺は奥歯を噛みしめた。
「俺は……もう、見てるだけは嫌なんだ」
喉の奥が熱い。
情けないくらい声が震える。
でも、それでも言った。
「守られるだけの俺で終わりたくない」
手のひらに、小さな熱が生まれた。
火種みたいな、今にも消えそうな熱。
弱い。
本当に弱い。
けれど、確かにそこにあった。
「来い」
俺はその熱にしがみついた。
「来いよ……!」
体中の力を、全部手のひらへ叩き込む。
痛みが走る。
骨がきしむ。
心臓が壊れそうに跳ねる。
それでも、止まらない。
「俺の中に少しでも力があるなら、今ここで全部出ろ!」
手のひらから、淡い光がこぼれた。
白ではない。
ミユウの光とは違う。
夜明け前の空みたいな、頼りない光。
けれど、その光はまっすぐ老人の胸へ落ちた。
「助かれ……」
光が揺れる。
消えそうになる。
俺はさらに力を込めた。
「助かれよ!」
老人の指が、ぴくりと動いた。
少女が顔を上げる。
「おじいちゃん……?」
次の瞬間、老人が大きく息を吸った。
神殿中に、命が戻る音が響いた。
少女が泣き叫んで老人に抱きつく。
神官たちが膝をつく。
誰かが祈りの言葉をこぼした。
俺は手を離した。
体から力が抜ける。
床に倒れそうになった俺の背中を、誰かが支えた。
ルゥだった。
「雑魚のくせに」
いつもの言い方なのに、その声は少しだけ違っていた。
「無茶しやがって」
「……助かったのか」
「ああ」
その一言で、張りつめていたものが切れた。
俺はミユウを見た。
彼女はまだ眠っている。
でも、さっきより顔色が戻っている。
「ミユウ……見たか」
声にならない声で言った。
「俺、少しは……守れたぞ」
ルゥはしばらく黙っていた。
やがて、俺の前に立つ。
背中の白い羽が広がった。
神殿の高い窓から差し込む光が、羽を銀色に染める。
ルゥの手の中に、一振りの剣が現れた。
訓練用の剣とは違う。
刃には星の光を閉じ込めたような輝きが走り、柄には古い文字が刻まれている。
見ただけでわかった。
これは、ただの武器じゃない。
「アストラルブレイド」
ルゥが言った。
「勇者に渡される実剣だ。飾りじゃねえ。選ばれなければ、ただの鉄より重い。扱えなければ、お前の腕ごと持っていく」
神殿の空気が変わった。
誰も声を出さない。
ルゥは剣を俺へ差し出した。
「そいつに真の主だと認めさせろ」
俺は、震える手を伸ばした。
怖くないわけじゃない。
力が足りないことは、誰より俺が知っている。
この先、もっと強い敵が来る。
ミユウを狙う何かも、きっと現れる。
俺はまだ弱い。
何度も倒れるだろう。
何度も迷うだろう。
それでも。
もう、守られるだけではいたくない。
俺はアストラルブレイドの柄を握った。
重い。
腕が引きちぎれそうなほど重い。
だが、離さない。
刃が一瞬、まばゆく輝いた。
神殿の白い床に、星のような光が散る。
ルゥの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「上等だ」
その時だった。
「……いや……」
かすかな声が聞こえた。
俺は振り返った。
床に横たわるミユウが、苦しそうに眉を寄せている。
「ミユウ!」
俺は慌てて駆け寄った。
だが、目は閉じたままだ。
意識は戻っていない。
ただ、夢の中で何かから逃げているようだった。
「……やだ……」
ミユウの指が小さく震える。
額には冷たい汗が浮かんでいる。
「大丈夫だ。もう終わった」
俺は手を握った。
けれど、ミユウの震えは止まらない。
「……あの人……」
かすれた声が漏れた。
神殿が静まり返る。
「……あの人がくる……」
背筋が冷えた。
九十九人を救い、自分が倒れるまで笑っていた少女が、怯えている。
今まで見たことがないほど深い恐怖に、震えている。
「おい、ルゥ。何だよ」
ルゥの顔から笑みが消えていた。
金色の瞳が、冷たく細くなる。
「……面倒なことになったな」
「何の話だ」
ルゥは小さく舌打ちした。
「ラフィセルだ」
名前を聞いただけなのに、神殿の温度が下がった気がした。
「誰だ、それ」
「九百年前からミユウを追い続けている化け物だ」
ルゥの声は低かった。
「今ので気づかれた」
「今ので?」
「お前の覚醒だ。ミユウの力だ。眠っていた流れが動いた」
ルゥは窓の外を見る。
夜空の向こう。
遥か彼方を睨むように。
「奴は来る」
神殿にいた誰も声を出せなかった。
俺だけが立ち上がった。
「なら止める」
ルゥが鼻で笑う。
「今のお前じゃ瞬殺だ」
「関係ない」
「相手は天使だぞ」
「関係ない」
俺は眠るミユウを見た。
怖かった。
正直、震えるほど怖かった。
けれど、もう逃げたくなかった。
何もできないまま、大切な人を失うのは嫌だった。
アストラルブレイドを握り直す。
剣が小さく震えた。
まるで応えるように。
「来るなら来い」
俺は静かに言った。
「今は勝てなくてもいい」
弱いままで終わる気はない。
何度でも立つ。
何度でも強くなる。
ミユウを守るためなら。
俺は剣を握りしめた。
そして、はっきりと言った。
「俺はもう、逃げない」
「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」
「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気







