Masuk「やった……」
倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。
俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。
息が荒い。
腕が痛い。
指先はまだ震えている。
それでも、俺は立っていた。
勝った。
たった一匹のスライムだ。
この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。
それでも。
俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。
「龍夜くん!」
ミユウが走ってきた。
次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。
「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」
「いや、逃げたかったけどな」
「でも逃げなかったもん!」
ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
俺は強くない。
魔力もない。
剣だって、まだまともに振れない。
でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。
「龍夜くんは、絶対強くなるよ」
「……なんでそんなに言い切れるんだよ」
「だって、諦めない人だから」
何気ない言葉だった。
でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。
誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。
「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」
石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。
「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」
「ほう。言い返す元気は残ってるのか」
ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。
「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」
「それ、褒めてるのか?」
「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」
相変わらず腹の立つ言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。
初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。
その時だった。
神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。
歓声じゃない。
祈りでもない。
泣き声。
叫び声。
助けを求める声。
ミユウの笑顔が消えた。
「行かなきゃ」
「待て、ミユウ」
俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。
神殿の大広間は、人であふれていた。
老人を背負った男。
熱にうなされる子どもを抱いた母親。
顔色の悪い女。
足を引きずる若者。
数えきれない人たちが、白い石床の上に座り込み、柱にもたれ、神官たちへ必死に訴えていた。
「白い羽の少女がいると聞きました!」
「娘を助けてください!」
「聖女様、お願いします!」
その声が、いっせいにミユウへ向いた。
俺は反射的に彼女の前へ立った。
怖かった。
魔物より怖いと思った。
ここにいる人たちは敵じゃない。みんな必死なだけだ。大切な人を失いたくなくて、藁にもすがる思いでここまで来た。
だからこそ、止まらない。
誰も悪くないまま、ミユウだけが削られていく未来が見えた。
「ミユウ、無理だ」
俺は低く言った。
「この人数を一人で見るなんて無茶だ。神官たちに任せて、重い人だけ――」
「選べないよ」
ミユウは、困ったように笑った。
その笑顔は明るい。
けれど、指先が小さく震えていた。
「苦しんでる人がいるんだもん。目の前にいるんだもん。助けたいよ」
「お前が倒れたらどうする」
「大丈夫。わたし、癒すのは得意だから」
そう言って、ミユウは最初の子どもの前に膝をついた。
小さな額へ手を当てる。
白い光がふわりと広がった。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
母親が泣き崩れた。
「ありがとうございます……!」
「よかった」
ミユウは本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。
人を救って笑う彼女を、どうやって止めればいい。
でも、止めなければいけなかった。
二人目。
三人目。
ミユウは迷わず手を伸ばした。
彼女の光は温かかった。
神殿の冷たい石床まで、春の日差しに変えてしまうような光だった。
助かった人が泣く。
家族が笑う。
神官たちが祈る。
その中心で、ミユウだけが少しずつ色を失っていく。
「ルゥ」
俺は小さく呼んだ。
「ミユウは、どこまでできる?」
ルゥはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、胸の奥が冷たくなる。
「癒しは奇跡じゃねえ」
やがて、ルゥが低く言った。
「力を使えば、その分だけ削れる。あいつは加減を知らない。目の前で泣かれたら、自分の命まで差し出す」
「止めろよ」
「止めて止まるなら苦労しねえよ」
ルゥの声に、いつもの軽さはなかった。
俺はミユウを見る。
十人目を癒した時、彼女はまだ笑っていた。
二十人目を癒した時、額に汗が浮かんだ。
三十人目を癒した時、立ち上がるまでに一呼吸遅れた。
そのたびに俺は手を伸ばした。
「ミユウ、休め」
「もう少し」
「さっきからそればっかりだ」
「だって、まだ待ってる人がいるもん」
明るい声だった。
でも、息が乱れている。
俺は唇を噛んだ。
守ると決めたのに。
俺は何をしている。
剣を握ってスライムに勝ったくらいで、自分が少し強くなった気になっていた。
でも今、目の前でミユウが削られているのに、俺は止めることも代わることもできない。
それが悔しかった。
自分の無力さが、喉の奥に詰まって苦しかった。
ミユウはさらに癒し続けた。
途中から、俺は人数を数えるのをやめた。
数にしたら、彼女の痛みまでただの数字になってしまう気がした。
代わりに、ミユウの呼吸を見ていた。
肩が上がる。
唇が震える。
手が白くなる。
それでも彼女は、患者の前に膝をつくたび、必ず笑った。
「大丈夫。こわくないよ」
「もう少しで楽になるからね」
「よく頑張ったね」
その声は優しかった。
優しすぎた。
俺はその優しさが怖かった。
誰かを救うためなら、自分が壊れても構わないと思っている声だったから。
「ミユウ!」
彼女の膝が崩れた。
俺は駆け寄り、抱き止めた。
軽い。
怖いほど軽かった。
「もう終わりだ」
「だめ……」
「だめじゃない。終わりだ」
「あと少しなの」
「お前が倒れたら意味ないだろ!」
俺の声が神殿に響いた。
ミユウが驚いたように俺を見る。
怒鳴りたかったわけじゃない。
怖かった。
ただ、怖かった。
さっきまで笑っていた彼女が、腕の中で消えてしまいそうで。
「俺は、お前を守るために勇者になるって決めたんだ」
声が震えた。
「お前が自分を犠牲にして笑うなら、俺が止める。嫌われても止める。怒られても止める」
ミユウの瞳が揺れた。
少しだけ、泣きそうに見えた。
「龍夜くん……」
「頼む。休んでくれ」
その時、広間の奥で小さな泣き声がした。
幼い少女が、老人の手を握って泣いていた。
「おじいちゃん……」
俺にもわかった。
待てない命がある。
ミユウの視線が、そちらへ向く。
俺はその顔を見た瞬間、もう止められないと悟った。
「お願い」
ミユウが、かすれた声で言った。
「最後まで、見届けさせて」
俺は何も言えなかった。
ミユウは俺の腕から離れた。
ふらつく体を無理やり支えて、次の患者の前へ進む。
光は弱くなっていた。
最初のような温かい光ではない。
今にも消えそうな、小さな灯火だった。
それでも、彼女は手を伸ばす。
俺はその背中を支え続けた。
何度も倒れかける。
何度も息を詰まらせる。
何度も目を閉じそうになる。
そのたびに、ミユウは小さく言った。
「まだ」
俺は、その言葉を聞くたびに苦しくなった。
どうしてそんなに頑張れるんだ。
どうしてそこまで人を救いたいんだ。
どうして俺は、何もできないんだ。
最後から二人目の子どもを癒した時、ミユウの白い光が大きく揺れた。
呼吸が整った子どもを見て、母親が泣きながら頭を下げる。
ミユウは笑おうとした。
でも、もう笑顔になりきらなかった。
「よかっ……た……」
その声が途切れた。
次の瞬間、ミユウの体から力が抜けた。
「ミユウ!」
俺は抱き止めた。
今度は、さっきよりも軽かった。
胸が小さく上下している。
生きている。
それだけを確認するまで、息ができなかった。
「おい、起きろ。ミユウ」
返事はない。
手を握っても、握り返してこない。
俺の中で、何かが音を立てて崩れた。
守るって言ったのに。
止めるって言ったのに。
結局、俺はまた間に合わなかったのか。
神殿の中が静まり返っていた。
救われた人たちも、神官たちも、誰も歓声を上げない。
みんな、床に倒れたミユウを見ていた。
その沈黙が痛かった。
ミユウの優しさを見ていた全員が、今、彼女が何を失いかけたのかを知っている。
俺はミユウをそっと床に寝かせた。
その時、神官の声が震えた。
「まだ……一人、残っています」
広間の奥。
さっきの少女が、老人の手を握ったまま泣いていた。
老人の胸は、ほとんど動いていない。
少女は声を殺して泣いていた。
もう誰にも頼めないとわかっている顔だった。
その顔を見た瞬間、俺の中で何かが決まった。
俺は立ち上がった。
「俺がやる」
ルゥがこちらを見た。
「龍夜」
「俺がやる」
「お前に癒しの力はない」
「知ってる」
「失敗すれば倒れるぞ」
「それも知ってる」
俺は老人の前に膝をついた。
手を胸に当てる。
冷たい。
怖いほど冷たい。
手のひらからは何も出ない。
白い光なんて灯らない。
俺は魔力ゼロだ。
この世界に来てから、何度も突きつけられた。
お前には何もない。
お前は弱い。
お前は守られる側だ。
でも。
ミユウだけは違った。
龍夜くんならできる。
絶対強くなる。
諦めない人だから。
あの声が、胸の奥で何度も響く。
「……ふざけるな」
俺は小さくつぶやいた。
自分に言った。
ここで諦めたら、俺は一生、自分を許せない。
ミユウが九十九人を救った。
自分が倒れるまで、笑って救った。
最後の一人だけを絶望に置いていくために、あいつは倒れたんじゃない。
俺は目を閉じた。
集めろ。
どこかにあるはずだ。
ゼロでもいい。
かけらでもいい。
血の奥に、骨の奥に、心臓の奥に、まだ燃えているものがあるなら、全部ここへ持ってこい。
俺は何のためにここにいる。
何のために立った。
何のために剣を握った。
ミユウを守るためだ。
あいつが守ろうとしたものを、俺がここで終わらせないためだ。
胸の奥が焼けた。
息が詰まる。
体の中から無理やり何かを引きずり出されるような痛みが走った。
指先がしびれる。
膝が震える。
視界が白くかすむ。
でも、手は離さない。
「起きろ……」
老人の胸は動かない。
「頼む。起きてくれ」
少女が泣いている。
ミユウが眠っている。
神殿中が、息を止めている。
俺は奥歯を噛みしめた。
「俺は……もう、見てるだけは嫌なんだ」
喉の奥が熱い。
情けないくらい声が震える。
でも、それでも言った。
「守られるだけの俺で終わりたくない」
手のひらに、小さな熱が生まれた。
火種みたいな、今にも消えそうな熱。
弱い。
本当に弱い。
けれど、確かにそこにあった。
「来い」
俺はその熱にしがみついた。
「来いよ……!」
体中の力を、全部手のひらへ叩き込む。
痛みが走る。
骨がきしむ。
心臓が壊れそうに跳ねる。
それでも、止まらない。
「俺の中に少しでも力があるなら、今ここで全部出ろ!」
手のひらから、淡い光がこぼれた。
白ではない。
ミユウの光とは違う。
夜明け前の空みたいな、頼りない光。
けれど、その光はまっすぐ老人の胸へ落ちた。
「助かれ……」
光が揺れる。
消えそうになる。
俺はさらに力を込めた。
「助かれよ!」
老人の指が、ぴくりと動いた。
少女が顔を上げる。
「おじいちゃん……?」
次の瞬間、老人が大きく息を吸った。
神殿中に、命が戻る音が響いた。
少女が泣き叫んで老人に抱きつく。
神官たちが膝をつく。
誰かが祈りの言葉をこぼした。
俺は手を離した。
体から力が抜ける。
床に倒れそうになった俺の背中を、誰かが支えた。
ルゥだった。
「雑魚のくせに」
いつもの言い方なのに、その声は少しだけ違っていた。
「無茶しやがって」
「……助かったのか」
「ああ」
その一言で、張りつめていたものが切れた。
俺はミユウを見た。
彼女はまだ眠っている。
でも、さっきより顔色が戻っている。
「ミユウ……見たか」
声にならない声で言った。
「俺、少しは……守れたぞ」
ルゥはしばらく黙っていた。
やがて、俺の前に立つ。
背中の白い羽が広がった。
神殿の高い窓から差し込む光が、羽を銀色に染める。
ルゥの手の中に、一振りの剣が現れた。
訓練用の剣とは違う。
刃には星の光を閉じ込めたような輝きが走り、柄には古い文字が刻まれている。
見ただけでわかった。
これは、ただの武器じゃない。
「アストラルブレイド」
ルゥが言った。
「勇者に渡される実剣だ。飾りじゃねえ。選ばれなければ、ただの鉄より重い。扱えなければ、お前の腕ごと持っていく」
神殿の空気が変わった。
誰も声を出さない。
ルゥは剣を俺へ差し出した。
「そいつに真の主だと認めさせろ」
俺は、震える手を伸ばした。
怖くないわけじゃない。
力が足りないことは、誰より俺が知っている。
この先、もっと強い敵が来る。
ミユウを狙う何かも、きっと現れる。
俺はまだ弱い。
何度も倒れるだろう。
何度も迷うだろう。
それでも。
もう、守られるだけではいたくない。
俺はアストラルブレイドの柄を握った。
重い。
腕が引きちぎれそうなほど重い。
だが、離さない。
刃が一瞬、まばゆく輝いた。
神殿の白い床に、星のような光が散る。
ルゥの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「上等だ」
その時だった。
「……いや……」
かすかな声が聞こえた。
俺は振り返った。
床に横たわるミユウが、苦しそうに眉を寄せている。
「ミユウ!」
俺は慌てて駆け寄った。
だが、目は閉じたままだ。
意識は戻っていない。
ただ、夢の中で何かから逃げているようだった。
「……やだ……」
ミユウの指が小さく震える。
額には冷たい汗が浮かんでいる。
「大丈夫だ。もう終わった」
俺は手を握った。
けれど、ミユウの震えは止まらない。
「……あの人……」
かすれた声が漏れた。
神殿が静まり返る。
「……あの人がくる……」
背筋が冷えた。
九十九人を救い、自分が倒れるまで笑っていた少女が、怯えている。
今まで見たことがないほど深い恐怖に、震えている。
「おい、ルゥ。何だよ」
ルゥの顔から笑みが消えていた。
金色の瞳が、冷たく細くなる。
「……面倒なことになったな」
「何の話だ」
ルゥは小さく舌打ちした。
「ラフィセルだ」
名前を聞いただけなのに、神殿の温度が下がった気がした。
「誰だ、それ」
「九百年前からミユウを追い続けている化け物だ」
ルゥの声は低かった。
「今ので気づかれた」
「今ので?」
「お前の覚醒だ。ミユウの力だ。眠っていた流れが動いた」
ルゥは窓の外を見る。
夜空の向こう。
遥か彼方を睨むように。
「奴は来る」
神殿にいた誰も声を出せなかった。
俺だけが立ち上がった。
「なら止める」
ルゥが鼻で笑う。
「今のお前じゃ瞬殺だ」
「関係ない」
「相手は天使だぞ」
「関係ない」
俺は眠るミユウを見た。
怖かった。
正直、震えるほど怖かった。
けれど、もう逃げたくなかった。
何もできないまま、大切な人を失うのは嫌だった。
アストラルブレイドを握り直す。
剣が小さく震えた。
まるで応えるように。
「来るなら来い」
俺は静かに言った。
「今は勝てなくてもいい」
弱いままで終わる気はない。
何度でも立つ。
何度でも強くなる。
ミユウを守るためなら。
俺は剣を握りしめた。
そして、はっきりと言った。
「俺はもう、逃げない」
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
悪魔がミユウへ触れようとした瞬間、俺はその手首をつかんだ。「ミユウに触るな」 静かな声が、自分の喉から落ちた。 胸の内には、焼けつくような怒りがある。それでも、視界は澄み切っていた。以前のように感情が力を引きずり出しているのではない。 守ると決めた俺自身が、力を動かしている。 悪魔の黒い皮膚をつかんだ指先から、淡い金色の光がにじみ出した。身体の奥から流れてきた熱が腕を通り、手のひらへ集まっていく。「熱い! なんだ、これは!」 悪魔は目を見開き、翼を激しく羽ばたかせた。俺の手を振りほどくと、赤く光る手首を押さえながら空へ逃げる。 夕暮れの森に長い影が落ちた。 冷たい風が木々の梢を揺らし、草原に咲く白い花が一斉に身を伏せる。その向こうで、悪魔の黒い翼が茜色の空を切り裂いた。 逃がすつもりはない。 俺はゆっくり息を吸い、胸の奥に意識を向けた。 力を無理に引きずり出すのではなく、自分の呼吸へ重ねていく。心臓が打つたび、身体の内側にある熱が目を覚まし、肩から腕へ、腰から足へと流れていった。 金色の髪が激しく逆立つ。 足元から立ち上った淡い金色の光が、俺の全身を静かに包み込んだ。 炎のように荒れ狂うことはない。 光は俺の輪郭に沿って穏やかに揺れ、呼吸に合わせて明るさを変えている。熱も、重さも、すべてが俺の意思に従っていた。「アストラルブレイヴ……!」 背後から、ミユウの明るい声が届く。 その声に押されるように、俺は地面を蹴った。 土が弾けた。 次の瞬間、身体は木々の高さを越え、夕暮れの空へ飛び出していた。 頬へぶつかった風が、金色の髪を激しく揺らす。 速い。 そう考えた時には、地上の草原がはるか下へ遠ざかっている。 三日前までの俺なら、飛び上がった勢いに身体を任せるしかなかった。空中で姿勢を変えるだけでも全身へ無駄な力が入り、着地する場所を選ぶ余裕などなかった。 今は違う。 右足へ魔力を流すと、何もない空に見えない足場が生まれた。そこを踏み込めば、身体は俺が望んだ方向へ鋭く曲がる。 腕へ力を移せば上半身が軽くなり、背中へ巡らせれば翼がなくても風をつかめる。 まるで、空そのものが俺の道になったようだった。 胸の奥に高揚が広がる。 だが、その感覚に酔っている暇はない。 前方を飛ぶ悪魔が右へ身体を傾ける。そのわずかな動
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ







