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第7話 俺はもう、逃げない

Author: 東雲明
last update publish date: 2026-06-23 14:55:19

「やった……」

 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。

 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。

 息が荒い。

 腕が痛い。

 指先はまだ震えている。

 それでも、俺は立っていた。

 勝った。

 たった一匹のスライムだ。

 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。

 それでも。

 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。

「龍夜くん!」

 ミユウが走ってきた。

 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。

「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」

「いや、逃げたかったけどな」

「でも逃げなかったもん!」

 ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。

 俺は強くない。

 魔力もない。

 剣だって、まだまともに振れない。

 でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。

「龍夜くんは、絶対強くなるよ」

「……なんでそんなに言い切れるんだよ」

「だって、諦めない人だから」

 何気ない言葉だった。

 でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。

 誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。

「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」

 石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。

「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」

「ほう。言い返す元気は残ってるのか」

 ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。

「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」

「それ、褒めてるのか?」

「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」

 相変わらず腹の立つ言い方だった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。

 初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。

 その時だった。

 神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。

 歓声じゃない。

 祈りでもない。

 泣き声。

 叫び声。

 助けを求める声。

 ミユウの笑顔が消えた。

「行かなきゃ」

「待て、ミユウ」

 俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。

 神殿の大広間は、人であふれていた。

 老人を背負った男。

 熱にうなされる子どもを抱いた母親。

 顔色の悪い女。

 足を引きずる若者。

 数えきれない人たちが、白い石床の上に座り込み、柱にもたれ、神官たちへ必死に訴えていた。

「白い羽の少女がいると聞きました!」

「娘を助けてください!」

「聖女様、お願いします!」

 その声が、いっせいにミユウへ向いた。

 俺は反射的に彼女の前へ立った。

 怖かった。

 魔物より怖いと思った。

 ここにいる人たちは敵じゃない。みんな必死なだけだ。大切な人を失いたくなくて、藁にもすがる思いでここまで来た。

 だからこそ、止まらない。

 誰も悪くないまま、ミユウだけが削られていく未来が見えた。

「ミユウ、無理だ」

 俺は低く言った。

「この人数を一人で見るなんて無茶だ。神官たちに任せて、重い人だけ――」

「選べないよ」

 ミユウは、困ったように笑った。

 その笑顔は明るい。

 けれど、指先が小さく震えていた。

「苦しんでる人がいるんだもん。目の前にいるんだもん。助けたいよ」

「お前が倒れたらどうする」

「大丈夫。わたし、癒すのは得意だから」

 そう言って、ミユウは最初の子どもの前に膝をついた。

 小さな額へ手を当てる。

 白い光がふわりと広がった。

 荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 母親が泣き崩れた。

「ありがとうございます……!」

「よかった」

 ミユウは本当に嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、俺は何も言えなくなった。

 人を救って笑う彼女を、どうやって止めればいい。

 でも、止めなければいけなかった。

 二人目。

 三人目。

 ミユウは迷わず手を伸ばした。

 彼女の光は温かかった。

 神殿の冷たい石床まで、春の日差しに変えてしまうような光だった。

 助かった人が泣く。

 家族が笑う。

 神官たちが祈る。

 その中心で、ミユウだけが少しずつ色を失っていく。

「ルゥ」

 俺は小さく呼んだ。

「ミユウは、どこまでできる?」

 ルゥはすぐには答えなかった。

 その沈黙だけで、胸の奥が冷たくなる。

「癒しは奇跡じゃねえ」

 やがて、ルゥが低く言った。

「力を使えば、その分だけ削れる。あいつは加減を知らない。目の前で泣かれたら、自分の命まで差し出す」

「止めろよ」

「止めて止まるなら苦労しねえよ」

 ルゥの声に、いつもの軽さはなかった。

 俺はミユウを見る。

 十人目を癒した時、彼女はまだ笑っていた。

 二十人目を癒した時、額に汗が浮かんだ。

 三十人目を癒した時、立ち上がるまでに一呼吸遅れた。

 そのたびに俺は手を伸ばした。

「ミユウ、休め」

「もう少し」

「さっきからそればっかりだ」

「だって、まだ待ってる人がいるもん」

 明るい声だった。

 でも、息が乱れている。

 俺は唇を噛んだ。

 守ると決めたのに。

 俺は何をしている。

 剣を握ってスライムに勝ったくらいで、自分が少し強くなった気になっていた。

 でも今、目の前でミユウが削られているのに、俺は止めることも代わることもできない。

 それが悔しかった。

 自分の無力さが、喉の奥に詰まって苦しかった。

 ミユウはさらに癒し続けた。

 途中から、俺は人数を数えるのをやめた。

 数にしたら、彼女の痛みまでただの数字になってしまう気がした。

 代わりに、ミユウの呼吸を見ていた。

 肩が上がる。

 唇が震える。

 手が白くなる。

 それでも彼女は、患者の前に膝をつくたび、必ず笑った。

「大丈夫。こわくないよ」

「もう少しで楽になるからね」

「よく頑張ったね」

 その声は優しかった。

 優しすぎた。

 俺はその優しさが怖かった。

 誰かを救うためなら、自分が壊れても構わないと思っている声だったから。

「ミユウ!」

 彼女の膝が崩れた。

 俺は駆け寄り、抱き止めた。

 軽い。

 怖いほど軽かった。

「もう終わりだ」

「だめ……」

「だめじゃない。終わりだ」

「あと少しなの」

「お前が倒れたら意味ないだろ!」

 俺の声が神殿に響いた。

 ミユウが驚いたように俺を見る。

 怒鳴りたかったわけじゃない。

 怖かった。

 ただ、怖かった。

 さっきまで笑っていた彼女が、腕の中で消えてしまいそうで。

「俺は、お前を守るために勇者になるって決めたんだ」

 声が震えた。

「お前が自分を犠牲にして笑うなら、俺が止める。嫌われても止める。怒られても止める」

 ミユウの瞳が揺れた。

 少しだけ、泣きそうに見えた。

「龍夜くん……」

「頼む。休んでくれ」

 その時、広間の奥で小さな泣き声がした。

 幼い少女が、老人の手を握って泣いていた。

「おじいちゃん……」

 俺にもわかった。

 待てない命がある。

 ミユウの視線が、そちらへ向く。

 俺はその顔を見た瞬間、もう止められないと悟った。

「お願い」

 ミユウが、かすれた声で言った。

「最後まで、見届けさせて」

 俺は何も言えなかった。

 ミユウは俺の腕から離れた。

 ふらつく体を無理やり支えて、次の患者の前へ進む。

 光は弱くなっていた。

 最初のような温かい光ではない。

 今にも消えそうな、小さな灯火だった。

 それでも、彼女は手を伸ばす。

 俺はその背中を支え続けた。

 何度も倒れかける。

 何度も息を詰まらせる。

 何度も目を閉じそうになる。

 そのたびに、ミユウは小さく言った。

「まだ」

 俺は、その言葉を聞くたびに苦しくなった。

 どうしてそんなに頑張れるんだ。

 どうしてそこまで人を救いたいんだ。

 どうして俺は、何もできないんだ。

 最後から二人目の子どもを癒した時、ミユウの白い光が大きく揺れた。

 呼吸が整った子どもを見て、母親が泣きながら頭を下げる。

 ミユウは笑おうとした。

 でも、もう笑顔になりきらなかった。

「よかっ……た……」

 その声が途切れた。

 次の瞬間、ミユウの体から力が抜けた。

「ミユウ!」

 俺は抱き止めた。

 今度は、さっきよりも軽かった。

 胸が小さく上下している。

 生きている。

 それだけを確認するまで、息ができなかった。

「おい、起きろ。ミユウ」

 返事はない。

 手を握っても、握り返してこない。

 俺の中で、何かが音を立てて崩れた。

 守るって言ったのに。

 止めるって言ったのに。

 結局、俺はまた間に合わなかったのか。

 神殿の中が静まり返っていた。

 救われた人たちも、神官たちも、誰も歓声を上げない。

 みんな、床に倒れたミユウを見ていた。

 その沈黙が痛かった。

 ミユウの優しさを見ていた全員が、今、彼女が何を失いかけたのかを知っている。

 俺はミユウをそっと床に寝かせた。

 その時、神官の声が震えた。

「まだ……一人、残っています」

 広間の奥。

 さっきの少女が、老人の手を握ったまま泣いていた。

 老人の胸は、ほとんど動いていない。

 少女は声を殺して泣いていた。

 もう誰にも頼めないとわかっている顔だった。

 その顔を見た瞬間、俺の中で何かが決まった。

 俺は立ち上がった。

「俺がやる」

 ルゥがこちらを見た。

「龍夜」

「俺がやる」

「お前に癒しの力はない」

「知ってる」

「失敗すれば倒れるぞ」

「それも知ってる」

 俺は老人の前に膝をついた。

 手を胸に当てる。

 冷たい。

 怖いほど冷たい。

 手のひらからは何も出ない。

 白い光なんて灯らない。

 俺は魔力ゼロだ。

 この世界に来てから、何度も突きつけられた。

 お前には何もない。

 お前は弱い。

 お前は守られる側だ。

 でも。

 ミユウだけは違った。

 龍夜くんならできる。

 絶対強くなる。

 諦めない人だから。

 あの声が、胸の奥で何度も響く。

「……ふざけるな」

 俺は小さくつぶやいた。

 自分に言った。

 ここで諦めたら、俺は一生、自分を許せない。

 ミユウが九十九人を救った。

 自分が倒れるまで、笑って救った。

 最後の一人だけを絶望に置いていくために、あいつは倒れたんじゃない。

 俺は目を閉じた。

 集めろ。

 どこかにあるはずだ。

 ゼロでもいい。

 かけらでもいい。

 血の奥に、骨の奥に、心臓の奥に、まだ燃えているものがあるなら、全部ここへ持ってこい。

 俺は何のためにここにいる。

 何のために立った。

 何のために剣を握った。

 ミユウを守るためだ。

 あいつが守ろうとしたものを、俺がここで終わらせないためだ。

 胸の奥が焼けた。

 息が詰まる。

 体の中から無理やり何かを引きずり出されるような痛みが走った。

 指先がしびれる。

 膝が震える。

 視界が白くかすむ。

 でも、手は離さない。

「起きろ……」

 老人の胸は動かない。

「頼む。起きてくれ」

 少女が泣いている。

 ミユウが眠っている。

 神殿中が、息を止めている。

 俺は奥歯を噛みしめた。

「俺は……もう、見てるだけは嫌なんだ」

 喉の奥が熱い。

 情けないくらい声が震える。

 でも、それでも言った。

「守られるだけの俺で終わりたくない」

 手のひらに、小さな熱が生まれた。

 火種みたいな、今にも消えそうな熱。

 弱い。

 本当に弱い。

 けれど、確かにそこにあった。

「来い」

 俺はその熱にしがみついた。

「来いよ……!」

 体中の力を、全部手のひらへ叩き込む。

 痛みが走る。

 骨がきしむ。

 心臓が壊れそうに跳ねる。

 それでも、止まらない。

「俺の中に少しでも力があるなら、今ここで全部出ろ!」

 手のひらから、淡い光がこぼれた。

 白ではない。

 ミユウの光とは違う。

 夜明け前の空みたいな、頼りない光。

 けれど、その光はまっすぐ老人の胸へ落ちた。

「助かれ……」

 光が揺れる。

 消えそうになる。

 俺はさらに力を込めた。

「助かれよ!」

 老人の指が、ぴくりと動いた。

 少女が顔を上げる。

「おじいちゃん……?」

 次の瞬間、老人が大きく息を吸った。

 神殿中に、命が戻る音が響いた。

 少女が泣き叫んで老人に抱きつく。

 神官たちが膝をつく。

 誰かが祈りの言葉をこぼした。

 俺は手を離した。

 体から力が抜ける。

 床に倒れそうになった俺の背中を、誰かが支えた。

 ルゥだった。

「雑魚のくせに」

 いつもの言い方なのに、その声は少しだけ違っていた。

「無茶しやがって」

「……助かったのか」

「ああ」

 その一言で、張りつめていたものが切れた。

 俺はミユウを見た。

 彼女はまだ眠っている。

 でも、さっきより顔色が戻っている。

「ミユウ……見たか」

 声にならない声で言った。

「俺、少しは……守れたぞ」

 ルゥはしばらく黙っていた。

 やがて、俺の前に立つ。

 背中の白い羽が広がった。

 神殿の高い窓から差し込む光が、羽を銀色に染める。

 ルゥの手の中に、一振りの剣が現れた。

 訓練用の剣とは違う。

 刃には星の光を閉じ込めたような輝きが走り、柄には古い文字が刻まれている。

 見ただけでわかった。

 これは、ただの武器じゃない。

「アストラルブレイド」

 ルゥが言った。

「勇者に渡される実剣だ。飾りじゃねえ。選ばれなければ、ただの鉄より重い。扱えなければ、お前の腕ごと持っていく」

 神殿の空気が変わった。

 誰も声を出さない。

 ルゥは剣を俺へ差し出した。

「そいつに真の主だと認めさせろ」

 俺は、震える手を伸ばした。

 怖くないわけじゃない。

 力が足りないことは、誰より俺が知っている。

 この先、もっと強い敵が来る。

 ミユウを狙う何かも、きっと現れる。

 俺はまだ弱い。

 何度も倒れるだろう。

 何度も迷うだろう。

 それでも。

 もう、守られるだけではいたくない。

 俺はアストラルブレイドの柄を握った。

 重い。

 腕が引きちぎれそうなほど重い。

 だが、離さない。

 刃が一瞬、まばゆく輝いた。

 神殿の白い床に、星のような光が散る。

 ルゥの口元が、ほんの少しだけ上がった。

「上等だ」

 その時だった。

「……いや……」

 かすかな声が聞こえた。

 俺は振り返った。

 床に横たわるミユウが、苦しそうに眉を寄せている。

「ミユウ!」

 俺は慌てて駆け寄った。

 だが、目は閉じたままだ。

 意識は戻っていない。

 ただ、夢の中で何かから逃げているようだった。

「……やだ……」

 ミユウの指が小さく震える。

 額には冷たい汗が浮かんでいる。

「大丈夫だ。もう終わった」

 俺は手を握った。

 けれど、ミユウの震えは止まらない。

「……あの人……」

 かすれた声が漏れた。

 神殿が静まり返る。

「……あの人がくる……」

 背筋が冷えた。

 九十九人を救い、自分が倒れるまで笑っていた少女が、怯えている。

 今まで見たことがないほど深い恐怖に、震えている。

「おい、ルゥ。何だよ」

 ルゥの顔から笑みが消えていた。

 金色の瞳が、冷たく細くなる。

「……面倒なことになったな」

「何の話だ」

 ルゥは小さく舌打ちした。

「ラフィセルだ」

 名前を聞いただけなのに、神殿の温度が下がった気がした。

「誰だ、それ」

「九百年前からミユウを追い続けている化け物だ」

 ルゥの声は低かった。

「今ので気づかれた」

「今ので?」

「お前の覚醒だ。ミユウの力だ。眠っていた流れが動いた」

 ルゥは窓の外を見る。

 夜空の向こう。

 遥か彼方を睨むように。

「奴は来る」

 神殿にいた誰も声を出せなかった。

 俺だけが立ち上がった。

「なら止める」

 ルゥが鼻で笑う。

「今のお前じゃ瞬殺だ」

「関係ない」

「相手は天使だぞ」

「関係ない」

 俺は眠るミユウを見た。

 怖かった。

 正直、震えるほど怖かった。

 けれど、もう逃げたくなかった。

 何もできないまま、大切な人を失うのは嫌だった。

 アストラルブレイドを握り直す。

 剣が小さく震えた。

 まるで応えるように。

「来るなら来い」

 俺は静かに言った。

「今は勝てなくてもいい」

 弱いままで終わる気はない。

 何度でも立つ。

 何度でも強くなる。

 ミユウを守るためなら。

 俺は剣を握りしめた。

 そして、はっきりと言った。

「俺はもう、逃げない」

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    「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第54話 守られる喜び

    「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第6話 雑魚と呼ばれた少年の一閃

    「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第5話 俺がいる

    「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第4話 守れぬ手

    「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた

  • アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜   第3話 名前を知っている理由

    「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気

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